平安神楽
別れの時。これからも時雨と鶯は手を取り合って生きていけるのか。時雨の行く末を案じた神楽は、数珠を形見代わりに置いていく。
鶯が目覚めたのは既に一日の終わり、夕方になって女房らが重い腰を上げて飯の支度に取り掛かっている時だった。
ずっとそこにいたのか、枕元には時雨がいて、かいがいしく額に当てた布などを取り替えてくれている。
鶯は布団の中で自分の腹を撫でてみた。
ぺちゃんこだった。
そこだけ風船の様になっていたのが嘘の様だった。
では、あれはやはり夢だったのですね。
私は恐ろしい悪夢を長々と喜んで見ていたのですね。
「大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくる弟に、鶯は薄い微笑みを返した。
「ごめんなさい、時雨。夢の中にはあなたがいなかったのでした」
死んだ父より生きている時雨に側にいて欲しい。
これからもずっとだ。
透き通るような白い腕を時雨の頬に当て、眺めている時に鴬は気付いた。
時雨の首から薄紫の玉がついた数珠がかけられている。
「時雨、これをどうしたのですか?」
すると時雨は自分もよくわからない、という顔でこねくり回してみせた。
「わからない、法師さんがくれたんだ」
「法師様?どこ?まだいるんですか?」
「いいや、もう行っちまったよ、急いでいるんだと」
「そうですか…」
礼を言う暇も無かった。
夢で見たのが最期とは。
それで時雨が数珠を受け取るとはどういういきさつであろうか。
「もう行っちまうのかい」
時雨は階を下りる神楽を見下ろして呟いた。
病み上がりを抱えた家族が医者が帰るのを不安に思うのと同様で、神楽が側にいるうちは安心だが一人になった時に何かあっては嫌なのだろう。
それなのに神楽は「ああ」と素っ気なく行こうとしている。
「もう一晩いいじゃないか」
「用が無い、俺は急いでる」
薄情過ぎて時雨は神楽の後頭部を睨みつけた。
「じゃあ、金を出す」
礼金のつもりだった。
神楽がちらりと目だけ寄越すのがわかった。
「結局金が欲しいんだろ?出すよ、倉を特別に開けさせて…」
「時雨」
行こうとするのを呼び止めて、神楽はもう一度階を上り怪訝そうにしている時雨を見下ろした。
「何だよ?」
「鶯はもう大丈夫だ。それよか時雨…俺はお前が心配だ」
時雨には神楽の言っている事がわからず、口を開いてぽかんとしている。